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ボディーパーカッション
今週の金曜日は、「六年生を送る会」です。各学年の子どもたちが、六年生のためにいろいろな演技をしてくれます。それに対して、六年生のお返しの演技は、
○ボディーパーカッション
○合唱「SmileAgain」
ボディーパーカッションは、自分の体を叩いて音を出し、リズムをつくる演技なのですが、これがなかなかむずかしい。
まず、なかなか音が出ません。足の腿や、胸も叩くのですが、どうしても、体をさわるだけの演技になってしまい、音が出ません。「音を出すこと」を意識して、がんばってほしいです。
二つ目は、どうしても速くなりがちで、143名のリズムがなかなか合いません。
小太鼓でリズムをとりますが、それがあっても、なかなか合わない。でも、まわりの音・速さを意識して演技することは、この学年の子どもたちにとって、必要な学習だと思います。
一人で生活しているわけではない、なんでも自分の思い通りにいくわけではないこと等々、こういった練習を通して学んでほしいと思っています。
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あま~い、お礼
家庭科の時間に、子どもたちが、一年間のお礼ということで、甘いあま~い、ご馳走を作ってくれました。
秘密で進められていたので、うれしかったです。
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給食費未納問題が生み出しているもの
私が勤務している市は、県内で給食費未納が一番多いとのこと。未納金額が一番多いのか、それとも払わない割合が多いのかは未確認。いずれにしても、この問題が現場に微妙な雰囲気を生んでしまっていることは事実です。
一つは、なぜか「学校・教師不信」。
「給食費を払っていない子に、なぜ学校は給食を出しているのか」という学校批判。さらには、「なぜ担任は、ちゃんと支払うように指導しないのか」という教師批判の声。
しかし残念ながら、本市では給食費に関しては学校は関わっていないのです。センター給食を実施している本市では、その支払いも各家庭の銀行から引き落とされるしくみです。
逆に学校や担任がかかわると、大変な作業になってしまいます。以前、まだ担任が集金していた時代には、その担任が立て替えていたという事実もあったことを聞きました。
ということで、振り込みが遅れた家庭に、担任はその通知を渡すだけです。その時も、その家庭が単にその月の振り込みが遅れているのか、それともずっと未納なのかは担任にはわかりません。(問題が大きくなってきたので、管理職には名前が通知されているのかもしれませんが…。少なくとも担任にはわかりません)
二つ目は、子どもたち同士の関係の問題です。
未納問題がこれだけ大きく報道されると、不思議なもので、給食の量や質が落ちてきたように感じてしまうのです。子どももそれを敏感に感じ取って、「給食費を払っていないのは誰だ!?」という声があがってくるわけです。担任に、未納者の名前を公開すするように要求してくる子もいます。
なぜ本市がこのように未納者が増えてしまったのか、そのシステムの見直しも含めて、一刻も早く解決してほしいと思っています。
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困惑の黄色いリボン
千葉県のいじめ撲滅キャンペーンの一つとして、いきなりこの時期に大量の黄色いリボンが各学校に配られて、現場では困惑しています。
ネットで検索してみると、確かに黄色いリボンを使って、いじめ問題に取り組んでいる学校もあるようですが、それは、そこにいたるまでの生徒たちの討議・討論に意味があったのであって、黄色いリボンをつければいじめがなくなるわけではないのです。
(ただ、個人的には黄色いリボンをつけること自体に違和感がありますが……)
今年度もあとわずか。この時期にこんなことをするのは、逆に取り組んできた学校の取り組みの意味を軽視することになってしまうのではないでしょうか。それとも、予算的な処置なのでしょうか?
各学校に黄色いリボンが配られたわけですから、かなりのお金を使ったのだと思います。「そのお金を無駄にしない」という名目で、[つけたか・つけていないか]のチェックを始める学校が出てこないことを祈るばかりです。
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「感謝の会」
昨日は、「感謝の会」でした。
まず、3,4校時に、子どもたちがサンドイッチを作ります。そして、5校時に保護者の方を招待して、そのサンドイッチを食べてもらいます。
その時に、子どもたちが一人ひとり、感謝の作文を読みます。
最後に、子どもたちが家庭科で作った親へのプレゼントを渡します。
もしかしたら、まだ親に「感謝」するのは早いのかもしれませんね。これから子どもたちは中学生になるわけですが、まだまだ親に対して苦労をかけるのだと思います。いや、もしかしたら、これからが苦労をかける本番なのかもしれません。
しかし、私の経験上、子育てに苦労させられた子どもほど、あとあと、とても親に対してやさしくなるのです。不思議ですね。きっと、子どもたちなりに、親に苦労させたり、迷惑をかけたりといったことがわかってくるのだと思います。
一方、どんなことがあっても……、何度も子どもたちに裏切られても……、最後まで信じてあげられるのは「親」だと思っています。そういった意味で、わかっていても「だまされてあげる」といったことも、これから何度となくあるかもしれません。
「親」というのは、そういうものだと思っています。
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教え子の子ども、つまり私の「孫」
昨日の5校時に、今日の「感謝の会」に向けて、そのサンドイッチ作りのために、子どもたちと買い物に行きました。各グループ、1000円を持っての買い物です。
グループ行動なので、私が全員を引率するわけではありません。そこで、スーパーの入り口の所でボンヤリ待っていると、声をかけてくれた女性が。ベビーカーの中には、かわいい男の子。
最初は誰だかわからなかったのですが、数秒たってから、教え子の女の子であったことがわかりました。本校の学区に住んでいるそうです。
教え子との関係では、もう「孫」がたくさんいるんだなあと、あらためて思いました。
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「ありがとう」の語源
卒業を前にして、クラスごとに「感謝の会」が開かれています。これは学校への感謝ではなくて、自分の親に対する感謝の会です。
サンドイッチを自分たちで作って食べてもらったり、感謝の作文を読んだりします。しおちゃんマンのクラスは、明日、開かれる予定です。
さて、「感謝」と言えば、「ありがとう」という言葉ですが、その語源はなんなのでしょうか。
「アリが十匹」とか、いろいろ言われていますが、そうではありません。
実は、「ありがとう」の語源は、「ありがたし」。
漢字で書くと「有り難し」。
つまり、
「有るのは難しい」=「めったにない・ありえない」
という意味になります。
昔の人は、滅多にない良いことがあると、神や仏の力だと信じて、
「こんなことは有り難い(めったにない・ありえない)ことだ」
と拝んで感謝したようです。
そのつぶやき「有り難いことで・・・」が、一般的に感謝する気持ちのときに、話し言葉(口語)で使われるようになり、「ありがとう」という言葉になったわけです。
若い人たちが、「アリエナーイ」と、よく言いますが、実はこれは、「ありがとう」と言っているのと同じ意味になってしまうわけですね。
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回れ右
卒業証書授与の所作の指導で、「回れ右」ができない子が多いことに気がつき、その指導についていろいろ勉強してみました。
まず、「回れ右」は先日、以下のように指導しました。
1)右足を後ろに下げます。
2)かかとで回ります。
3)右足を戻します。
他にも下記の方法があるようですが、鼓笛隊等で使われる応用編のようです。
1.左足を右足の前に出す。
2.つま先でまわります。
3.左足を戻します。
さて、難しいのは、2)の、「かかとで回る」ことです。しかし、詳しく調べてみると、正式にはそうではないようです。つまり、以下のように指導するのが正しいようです。
2)左足のかかとと、右足のつま先で右方向に回る。
今の子どもたちは、かかとを軸とした回転をすると体の軸がずれ、ふらついてしまうので、「左足のかかとと右足のつま先で右方向に回る。」となったようです。
つまり「回れ右」は、
「気をつけ」の姿勢から、第1動作で右足を約二足長、斜め左足の後方に引き、第2動作で左足の踵と右足のつま先で、180度右へ回り、後ろに向きを変え、第3動作で右足を左足に引きつけ「気をつけ」の姿勢になる。
ということになるようです。
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オルゴール完成
卒業制作の、オルゴールが完成しました。校歌が入っています。
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「学級」を教師評価の道具にしてはいけない
最近の傾向として、子どもの問題をそのまま教師評価に結びつける傾向がある。
しかもそれが「学級」を単位として進められ、担任教師への精神的な苦痛へと結びついている。
たとえば、忘れ物の数を学級ごとに数値化し、それを全体に公開しながら、教師の実践的な力量として評価することもその一つ。
確かに、忘れ物に対する指導が教師の力量によって左右されることも否定できない。しかし、忘れ物に限らず、年々子どもの問題が重くなってきている中、担任教師の力量だけではどうしようもない問題が増えてきていることもまた事実である。
だとしたら、それらを教師一人の力量の問題にせず、学校…、または地域の課題としてとらえ、みんなで取り組んでいく視点が必要ではないだろうか。
「学級」は、学校における子どもたちの基礎的な生活の場。
教師評価の道具にしてはいけない。
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教師になってよかったです
昨晩は、八千代高校時代の恩師を囲んでの同窓会でした。
この歳になりましたので、連絡がとれたのは十数名でしたが、先生ともお会いできて本当にいい会になりました。
私が先生にお伝えしたかったのは二つ。
一つは、「先生のおかげで教師にな(り)ました。ありがとうございました」
二つ目は、「教師の仕事はつらいけれど、教師になって本当によかったと思っています」
この二つをしっかりと伝えることができました。
それに対しての先生のお返事は、
「自分の教え子で、おまえみたいな教師がいて、うれしい」
これだけで、もう感激の涙、涙です。
そしてもう一つ。
「教育をもっと大きな視野でみる必要がある」
自分の目の前の子どもたちのことだけで四苦八苦している自分、そこからしか、教育を見ようとしていない自分、もしかしたら、別の視点から教育を見る必要があったかもしれないし、それができたのではないかと思いました。しかし、もうそれは手遅れかもしれないと、一瞬落ち込みました。
教師人生も、残りわずかだと思うのですが、自分の生き方としての教師人生はこれでよかったのかと、もう一度考える価値はあると思いました。もちろん前向きに、そしてこれからのために。
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恩師と飲む
しおちゃんマンには、恩師と呼ばせてもらっている方が二人います。
一人は、今日お会いできる予定の高校の時の先生。その先生については、下記のブログ記事で書きました。
⇒ 勝田台
そしてもう一人は、教師一年目の時に、学級づくりのイロハを教えてくれた先生。
実は昨晩、その先生と偶然に組合の学習会で顔を合わせて、学習会終了後、久しぶりに飲みました。
その先生に教わったことは、子どもたちを集団の中で育てていくこと。子ども一人ひとりは、集団の中でこそ育つということ。そして、子どもに文章を書かせることの大切さと、日刊の学級通信についてもその先生から教わりました。
昨晩と今日、偶然に二日続けて恩師にお会いできることは、何か意味があるのかもしれません。つまり、もう一度教師としての原点に戻れということなのかもしれません。
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「続ける」ということ
最近時々子どもたち(小六)に、「中学校に行ったら、部活、何やるの?」と聞いています。すでに決めている子もいれば、まだ悩んでいる子もいるようです。
中学校の部活動の問題…、教師の過度な負担や指導者不足等々の問題は十分承知しているものの、個人的には、中学校に行ったら、子どもたちにはぜひ三年間続けられる部活動をしてほしいと思っています。ここらへんが、私自身の矛盾というか……。そこでぜひ、中学生が学校でのびのびと部活動ができる体制を、国・自治体レベルで保障してほしいと思っています。
さて実は、「続ける」ということが大切で、そこから子どもたちが学ぶことは多いと考えています。
つまり、「続ける」ということは、当然その過程でいろいろな壁や挫折、トラブルがあるわけで、そのことをどう受け止めて、乗り越えていくのかが子どもたちの将来にとってとっても大切な、生きる自信とエネルギーになっていくのではないでしょうか。
これは部活動に限ったわけではなく、なんでもいいのですが、中学校において一番身近にできるのが部活動だと思ったのです。
三年間続けられることをぜひみつけてほしいです。
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特別支援教育
先日の研究会で、特別な支援を必要とする児童(LD、ADHD、高機能自閉症等の軽度発達障害を持つ児童)がクラスに在籍しているケースの実践報告について学習しました。
私が勤務する浦安市では、軽度発達障害を含めて、なんらかの障害を持ち、特別な支援を必要とする児童が「通常」と呼ばれている教室に在籍する場合は、保護者の要求で「補助教員」をつけることができます。
しかしながら、そういった自治体はまだまだ少なく、担任が一人で大変な思いをしているケースがほとんどです。
そして担任としてはどうしてもその子にかかりっきりになりがちで、他の子に目が行き届かず、クラス運営がなかなかうまく進まないケースも増えてきています。(その子のせいではありません。その子が在籍できることを保障していない教育行政の問題だと考えています。)
政府が特別支援教育を推進するのであれば、補助教員の配置や、補助教員をつけることに対する保護者への理解の努力、さらには、そのために学級がうまくいかなくなったからといって即、教員評価に結び付けない等々の教員評価制度の見直し、または評価制度そのものの廃止をお願いしたいと考えています。
★しおちゃんマンの、プライベートblogを開設しました。学校現場から離れた話題を書いていくつもりです。
左サイドバーの一番上にもリンクバナーがありますので、どうぞお立ち寄りください。
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♪校歌
卒業制作のオルゴールの曲は「校歌」です。
さて、この「校歌」ですが、私自身のことを語れば、小・中・高・大のうち今すぐに歌えるのは、小学校と高校と大学で、なぜか中学校の校歌は出てきません。聴けばすぐに思い出すとは思うのですが。
小学校の時は毎週朝会があったので、そのたびに歌ってきました。
高校は、選択教科で「音楽」を選択していたので、歌う回数が多かったです。
大学は、何かあるたびに歌わされたので覚えています。
つまり、歌ってきた回数が多かったので覚えているのだと思います。それに対して中学校の校歌は歌うことが少なかったような気がします。ということですぐには出てこない。
この歳になってやっと、校歌はよかったなあ……、と思えるようになりました。
小・中・高・大、それぞれの校歌のオルゴールがほしいくらいです。
今の子どもたちがうらやましいと思っています。
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卒業式の返事
卒業まであと5週間。
ご存知のように、子どもたちは卒業証書をもらう時に、名前を呼ばれたら一人で返事をします。
この「返事の声」がなかなか出ないので、六年生を担任するたびに苦労します。どなる必要はありませんが、せめて保護者のみなさんの所まで聞こえるようには返事をしてほしいです。
子どもたちにとっては、恥ずかしいという気持ちがあるようですが、実は、本番では、声が小さいほうが恥ずかしいのです。
コツは、「返事をする時に、息を吸ってから声を出す」ことです。そうすれば、誰でもそれなりの声が出るはずです。
このように、そろそろ、卒業証書のもらい方や呼びかけの練習の「準備」の時期です。
各自が、卒業式間近を自覚して、一日一日をすごしてほしいと思っています。
※右サイドバーに、雑談専用の掲示板を設置しました。「しおちゃんマンCafe」です。どうぞお気軽にご利用ください。
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保護者との共同
今年度も残り少なくなってきましたが、今年は本当に保護者のみなさんに支えられた一年間だったと実感しています。
しかし今の日本の教師の一番の悩みは、保護者のみなさんとの関係をどうするかだと聞いています。特に若い人は大変なようです。「理不尽な要求をしてくる困った親」といった言い方が日本の教師の間で広がっています。一部マスコミもそういった面をあおる傾向さえあります。
一方保護者の方も、学年はじめの出会いの日から(まだ何もしていないのに)学校や教師に対して批判的な目を持っており、私たちはまずそこからスタートしなければならない状態です。
それぞれが子どもたちのことで同じように頭を抱えているのに、それぞれがそっぽを向いているといった構図です。
しかしそれが何かのきっかけで向き合えた時に、ものすごい教育力を発揮します。
そのために私たち教師はもっと子どもたちのことを語り、保護者のみなさんとまず「事実の共有」をしていく必要があります。つまり、良いところは「良い」、足りないところは「課題」として保護者の方にきちんと知らせる必要があります。そしてその「事実」をめぐって、それぞれが何ができるのかを一緒になって考えていくことこそが大切なのではないでしょうか。
それぞれが困っていて、その責任をお互いのせいにする時代はもう終わりにしたいと思っています。
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九十九里での研究会合宿
九十九里で、千葉県生活指導研究協議会の合宿に来ています。
九十九里というのは、千葉県の太平洋側の海岸です。九十九里の海や、南房総の風景に接すると、あらためて千葉県の県民であることを実感します。
学習は、学級集団づくりについての理論的な学習、指導が難しい子についての実践レポートの分析、学級崩壊状態の学年をどう再生していこうとしたのかの実践レポートの分析の、二日間で3こまの学習が組まれています。
私たちの研究会は、実践レポートを聞きっぱなしにしないで、それを批判的に読み解きながら分析していくところに特徴があります。ゆえに、意見の対立がしばしばあります。でもそれが終わるとお互いにすっきり、という感じです。
意見の違いをぶつけることを嫌う傾向があるのは、学校だけでしょうか。それとも、民間でもどこでも、そういった傾向が強くなってきているのでしょうか?
意見の違いをぶつけあうことは、その内容を深めるために大切だと思っています。身近では、そういった風景がなくなってきたことに、ある意味、危険な感じがしています。
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進学先調査
進学先調査におわれています。
「おわれている」という表現を使ったのは、以前よりもこの調査が大変になってきているからです。定期的に教育委員会から調査が来るのですが、直前になるまでわからないというのが、現実です。こういった状況の中で、教育委員会としては、中学校の学級数がなかなかつかめないこと、そしてそれに合わせた教師の採用や人事異動がなかなか確定できないことなどで苦労していると思います。
その原因の一つは、学区がほぼ自由化になっているので、どこの公立中学に行くのか、直前まで悩む子が増えてきていること。
もう一つは、うちのクラスではそうでもないのですが、最近は私立受験の結果を保護者の方も子どもたちも話してくれない傾向があることがあげられます。正式な調査用紙を保護者宛に配布し、それが返ってきて、やっと結果がわかるといった状況です。
小学校の教師なんかに、いちいち受験の結果を報告する必要はないという気持ちもわかりますが、それではあまりにも水くさいだろうと感じるのは私だけでしょうか。
確かに、以前に比べて、調査書等を小学校の教師が書くことは少なくなりましたが、心配して「どうだったの?」と聞いても、「なんで先生に言わなきゃならないの?」と真顔で言われるとかなりショックです。まあ、子どもたちとそういった関係を結べなかった我々が悪いと言われてしまえばそれまでなのですが……。
しかし、受験のストレスを教室で発散し、それを必死に受けとめながら励ましてきた私たちのこの一年間はなんだったのだろうと、日本の多くの公立小学校6年生の担任は感じているのではないでしょうか。
私たちの仕事はこういったむくわれないことの連続です。言い換えれば、すぐにむくわれることを期待してはいけないのではないかと最近思います。もしかしたら、何十年もたってから、子どもたちの意識できない部分で、そっとむくわれているのかもしれないのです。
そういった意味で、教師の年度ごとの評価制度がいかにむなしいものなのかが、わかると思います。
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卒業制作
卒業制作に撮りかかりました。本校は、今年の卒業制作もオルゴール作りです。校歌が入っています。
以前は、学校に残るものとして卒業制作に取り組んでいた時代もありました。
たとえば、トーテムポールとか、日時計とか、体育館に掲示する校歌とか、壁の装飾とか……。
しかし最近では、子どもたち個人に返す形として卒業制作に取り組む学校が増えてきました。
そのように変わっていった理由は、一つは、学校に歴史が重なるにつれて、置く場所、飾る場所がなくなってしまったこと。また、その作品の管理が大変になってきたこと。
二つ目が、授業時数の確保が大変になってきて、時間がかかる集団的な取り組みがむずかしくなってきたこと。
そして三つ目が、世の中の風潮が、集団から個人重視になってきたことなどがあげられるのではないかと思います。
ちなみに、最近の個人重視の風潮は、子どもたちに間違ったことを教えてしまっているのではないかという疑いを個人的には持っています。
みんなでやることの大切さや、そこから得る様々な生きる力や技を失ってしまったような気がしてしかたがありません。
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国会議事堂&日本科学未来館
7日は、国会議事堂と、日本科学未来館に行きました。子どもたち(小6)にとって小学校最後の校外学習です。
国会議事堂は、他の学校もたくさんきていて混んでいたせいか、中を歩いただけでした。以前は、説明や質問コーナーもあったのですが、最近では素通りパターンなのかなあ…と、ちょっとがっかり。
ただ、赤じゅうたんも歩いたし、中央広間の、伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像も見られたし、参議院の本会議場も見ることができました。
バスガイドさんも言っていましたが、国会議員になるか、学校の先生になるか、または政治部の新聞記者にならないと、もしかしたらもう二度と来ることのない場所かもしれませんね。
午後は、日本未来科学館。下見をした時の記事にも書きましたが、しおちゃんマン的には、ロボットが気になりました。アシモとピノです。
特にピノは、現在本体に関する全情報(機構、電装系、ソフトウェア)が公開されています。(オープン・ピノ・プラットホーム)
つまり、情報を公開することによって、全世界レベルで研究を進めていくというスタンスだそうです。そこが気に入ってしまいました。
さあ、学校の大きな行事も、あとは感謝の会と、卒業式だけになりました。いよいよ卒業モードに本格的に突入します。
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思い込みと勘違い
しおちゃんマンは小さいときから、けっこう「思い込み」と「勘違い」が多いのです。
たとえば今思いつくことを書いてみると……、『さんしょうは小粒でもピリリと辛い』というのを、子どもの頃はずっと「最初は小粒でもピリリと辛い」だと思い込んでいました。で…、何が最初は辛いのかなと……。
あとから、「最初」ではなくて、「さんしょう」だと知って、『体は小さくとも、すばらしい能力を持っているということ』の意味であることを知りました。
さらには、「ノミの夫婦」をずっと「マメによく働く夫婦」だと思っていました。「ノミ」と「マメ」が混乱していたのでしょう。正しい意味は、『ノミはメスの方が大きく、このことから日本では妻のほうが夫より身長が高い夫婦のことを指して「ノミの夫婦」と表現する』ことを知りました。
思い込みや勘違いは多いのですが、そんな勘違いを正しく知ったときの方が、しっかりと記憶に定着することもわかりました。
ということで、失敗や勘違いを恐れず、子どもの時や若い時は、どんどん恥をかいた方がいいのかもしれません。
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長縄大会
昨日の昼休みは、長縄大会の5,6年生の部でした。
長縄の練習期間は、6年生は受験の準備や当日と重なるので欠席が多くて、メンバーがそろわず、子どもたちも意欲がなくなってしまい、まったくと言っていいほど練習をしていませんでした。
最近は、受験当日のずいぶん前から欠席する子が多いです。どうやら進学塾がそういった指導をするそうです。つまり、学校を休んで最後の追い込み勉強をやったり、体調を整えたりするのだそうです。
さて長縄ですが、子どもたちはとてもよくがんばっていました。成績は5年生にはるかに及びませんが、友達とチーム分けをめぐってぶつかったことも含めて、大切なことを学んでくれたと思います。
成功したことも、失敗したことも、学校の生活には無意味なことはないのだと思っています。
好きな言葉…というか、しおちゃんマンオリジナル。
『小さな失敗から、大きな宝』
『大きな失敗から、多くの仲間』
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最近のいじめ問題が生み出したもの
いじめ-出席停止問題をはじめとする最近のいじめに対するとらえかたが、現場にどのような混乱や「追いつめられ」をもたらしたのか、深刻に考えたいです。
近県では、いじめに加担したと見るやいなや、その生徒を管理職を含め、複数の教師が取り囲み、罵倒するといったことも起こっているようです。
また、職員室で「親のしつけがなっていないから」と大声で保護者を批判する管理職や教師も増えてきたとか。
学校・教師のレベルが低い、と言われてしまえばそれまでですが、一方で、学校や教師をそこまで追いつめているものは、明らかに教育再生会議をはじめとする最近の教育界の動きであり、そのことにも視点をあてたいと思っています。(もちろん私も含めて、現場も反省することも大切)
誤解のないように念のために書いておきますが、いじめを放置し、指導しなくてよい、と言っているわけではありません。そのとらえ方や、解決方法において、その方向がおかしくなってきているのではないかと感じているわけです。
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中2男子生徒の自殺
千葉県松戸市立中学2年の男子生徒(14)が1日、同市内の9階建てマンションの8階通路から飛び降り自殺してしまいました。
報道によると、男子生徒は1月31日、同級生の男子(14)を集団で暴行して重傷を負わせたとして学校の指導を受けていたそうです。一方でこの子自身もいじめを受けていた可能性があるということでした。
マスコミ報道は「今度はいじめに加担していた子が自殺」といったスタンスで報道していますが、まずこのスタンス疑問を感じます。
以前から書いているように、いじめの問題は、いじめる側・いじめられる側といった関係のみで考えてはいけないのではないかということです。同様に「その立場がクルクル変わる」という言い方も、所詮「いじめる側-いじめられる側」の関係でとらえているということなので同様に疑問を感じます。
私たちは、今の子どもたちの生きづらさをもっと知るべきであり、何に悩み、苦しんでいるのか…、そしてそれがどうして「いじめ」という形でふき出されなければならないのかに、もっと心をくだくべきではないかと思っています。そしてその上にたって、いじめの行為について指導するべきだと考えています。
子どもたちのいじめを絶対に許さないことは教師として、いや、子どもたちを育てる大人として当然のスタンスです。早急に具体的な手立てをとらなければなりません。
しかしそれだけでは足りない。そのことと平行して、心をくだかなければならないことがまだまだたくさんあるのだと思っています。
もう二度とこういった事件は、我々大人の責任として起こしてはならないのだと思います。
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駅弁:幸福弁当
大阪の公開講座、昼休みです。
さて、大阪に来る時に、東京駅で夕飯として、駅弁「幸福弁当」を買いました。
銀鱈粕漬け、玉子焼き、人参、牛蒡、里芋、蓮根、蒟蒻、筍、沢庵、梅干、ご飯、一福団子、相鴨ロース焼、渡り蟹真丈揚げ ←(すべての漢字が読めますか?)
このblogでは、過去にも以下のような駅弁を紹介してきたことを思い出しました。
⇒ 2005年08月28日 新潟・東京、そして鎌ヶ谷(焼たらこ、トロ鮭弁当)
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万葉仮名
大阪に来ています。今日、公開講座が開かれます。当日参加も受付けていますので、どうぞご参加ください。
さて、国語の学習で、「万葉仮名」が出てきました。一般の方にはなじみのない文字ですね。
万葉仮名というのは、七世紀後半頃、漢字を仮名のように使っていた文字のことです。その多くは、漢字そのものの意味とは関係のない使われ方をしていました。たとえば、
麻佐礼留多可良
と書いて、「まされる たから」と読みます。
また、この万葉仮名は、後にひらがな・カタカナに発展していったと考えられています。
ちなみに、奈良時代には、きゃ・きゅ・きょ・たっ・かっ、などの拗促音がなかったそうです。逆に、ふぁ・ふぃ・ふぇ・ふぉという音があったと考えられています。これらの音は室町時代あたりかになくなって、今では。は・ひ・ふ・へ・ほ、となっています。
さて、万葉仮名ですが、一部の若者が使う「夜露死苦」(よろしく)や、「愛死天流」(あいしてる)なども、今風の「万葉仮名」と言えるかもしれません。
ただしこの場合、漢字の音を使っていますが、若干、漢字そのものの意味も含んでいるような気がします。
こういったことを考えていくと、おもしろい授業が作れそうですね。
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今日から大阪へ
昨日、命を落としそうになりました。
家の前で道を横断しようとしたら、えんせきにつまづいて道路に四つんばいになって飛び出してしまいました。そこに車が来て、急ブレーキをふんで止まりました。ただただ平謝りです。ひざからたくさん血が出ていました。車がすごくゆっくりせまってくるように見えて恐かったです。
さて今晩、大阪に向かいます。明日の「生活指導誌読者公開講座-大阪ステージ-」の運営スタッフの仕事のためです。東京ステージでは分科会を担当しましたが、大阪では、受付や会計処理などの仕事をします。当日受付もしていますので、ぜひ飛び込みでお越しください。
全国生活指導研究協議会の取り組みは官制の研究会ではないので交通費等は支給されません。参加費でできるかぎり保障するようにしていますが、そのほとんどは、いわゆる自腹・手弁当です。こうして毎週のように取り組みが続くときついです。
実は、来週の土日も千葉の九十九里で、今度は千葉の生活指導研究協議会の合宿があります。最近土曜日はほとんど家にいません。
道路の真ん中で転んだのも、知らないうちに疲れがたまっているのかもしれません。気をつけないと……。
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さわらぬ神にたたりなし
最近の子は(もしかしたら大人も)、「強い力には従うが、弱くて正しい力には従わない」といった傾向があるような気がします。ゆえに、「それはおかしい」「あんなことをしてはいけない」と思っていても、それを口に出せなかったり、時には同調したポーズをとってしまったりします。そして最終的には、無関心ということに落ち着くようです。
先日、地元の喫茶店で仕事をしていたら、父親と息子(話の内容からおそらく6年生)が二人で私の後ろの席にすわりました。そこで、いじめについていろいろ話をしていたのですが、
子「いじめはたくさんあるよ」
父「その時はどうしてるんだ?」
子「何もしない。何もしないのが一番。あたらぬ神に罰はなしって言うだろ」
父「………」
それを言うなら、『さわらぬ神にたたりなし(または、参らぬ仏に罰は当たらぬ) 』だろ!と、心の中で強くつっこみを入れながら、どうしてこの父親は何も言わないのかが疑問でした。
ところで、「さわらぬ神にたたりなし」というのは、本当に「無関心が一番」という意味で使われていたのでしょうか?そこで調べてみると……、
「さわらぬ神にたたりなし」というのは、神様を信仰しないと、利益がない代わりにたたりもない…、という意味で、つまり、無関心をではいけない、つまらない、というまったく逆な意味で使われていたような気がするのです
今の時代ほど、子ども、おとな一人ひとりの小さな勇気が求められている時代はないのかもしれません。
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