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日本の教師に何が起こっているのか
長崎で、悲しくて、やりきれない事件が起こってしまいました。
報道だけでその背景を推測するのはご遺族の方をさらに傷つけてしまうのではないかと思いますので控えたいと思います。しかし長崎の過去の二つの事件以来、現場への要求と締め付けがすごかったことを聞いています。また、亡くなった場所が教室であったことや、家族へは不眠を訴えていたことなどから、やはり仕事上の悩みや「追いつめられ」があったのではないかと考えざるをえません。
私は6月1日のblogで、現場では佐世保の事件の教訓が生かされていないことを以下のように書きました。
あの事件が給食の準備中に起こったことの重大性を私たち現場の教師は感じているにもかかわらず、逆に「説明責任・結果責任」の書類作りにばかり追われてますます教師は多忙化し、「子どもの心と対話する」ことができないばかりか、その物理的な時間さえも奪われています。今、現場に必要なのは、教師を締め付けることや、「説明責任・結果責任」のための書類作りではなく、子どもたち一人ひとりとまともに向き合うことです。そして文科省・教育委員会・各学校管理職は、そのための環境づくりにこそ心をくだくべきだと考えています。二度とあのような悲しい、悲惨な事件を起こさないためにも。
さらには、6月11日には、私自身のことを以下のようにも書いています。
常に何かに追われている感じがして、夜中に目が覚めることが多いです。昨晩も二度起きてしまいました。これはマズイです。
日本の教師の多くは寡黙です。どんなに批判されても、黙々と子どもたちのために働きます。うまくいかない時には自分を責めます。そしてそれは絶対に表には出さずに一人で抱え込み、悩みます。
私たちは、私たちを追いつめているものに対して、こういった形でしかメッセージを残せないのでしょうか。悲しみと、怒りと、悔しさでいっぱいです。
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学校に「武器」があること
先日書きましたように、1~3年生の教室に「催涙スプレー」が配布されました。子どもの手の届かないところに置いてありますが、危険なものなので、子どもたちには話をしなければならないと思っています。
学校には他にも、「さすまた」もあり、職員室の、私の席の後ろをはじめ、何箇所かに設置されています。子どもを守るためとはいえ、学校に「武器」を置かなければならない時代になってしまったことが残念でなりません。
いざと言うときには、私たち教師は子どもを守るために体を張る覚悟があります。いや…、そんなかっこいいものではなく、おそらく体が自然に動いてしまうのだと思います。義務とか、責任とかの問題ではなくて、私たちは、「子どもを置いて逃げる」といった選択肢を持っていないのです。教師というのは(というよりは、大人なら誰でも)、そういうものだと思っています。
最近では山口県の高校の事件もありました。これからの時代は、外部からの不審者侵入だけでなく、こういった内部からのトラブルにも準備が必要になってきてしまいました。
そう考えると、「武器」を置くといったハードな面だけでは、子どもたちを守ることはできないのかもしれません。
そしてそれは学校だけでなく、地域まるごとのケアと取り組みが必要な時代になってきたということだと思っています。
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