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千生研県学校(学習編)
この土日で、千葉県白子町(外房)で県の生活指導研究協議会の合宿学習会に参加してきました。白子はテニス合宿で何度か行ったことがあり、テニス村としても有名です。
さて、私が参加したのは、小学校5年生の実践の分析と、2日目の中学校の実践の分析です。両方に共通していたのは、子どもの「暴力」についてです。小学校の報告では暴力的な言動を繰り返す子の指導、そして中学校ではタバコや器物破損、仲間や教師に対しての暴力を繰り返す子どもたちの指導についてでした。
なぜ今の子どもたちは、あれほど暴力(言動も含む)を繰り返すのでしょうか。かつての校内暴力の時代の「暴力」とは何か質が違っているように感じています。そして最悪の場合は、最後はそれが家族に向いて「殺人」という形にまでいってしまう事件が続いています。そこでまず、今の子どもたちの「暴力」の背景には何があるのかを論議しました。
一つは、家族関係に対する「苛立ち」と「不安」です。母親と父親の関係、そして親と自分の関係で、自分が受け入れられていないことを感じ、常に否定され続けてきた子が「暴力」を繰り返しています。それは「もうこれ以上、自分を保つことが出来ない」「自分が自分でいることに耐えることが出来ない」といった子どもたちの悲痛な「叫び」であり「哀しみ」でもあります。
ゆえに、自分につながっている学校も含めたあらゆるものに対して、敵意を持つことはあっても、和解し、共同的に生きることができないのです。なのに親や学校は、「しつけ」「教育指導」という名の「暴力」を繰り返してしまっているのではないかということです。そして今では、親を殺すことでしか自分が自分でありえない状況にまで追い込まれてしまっている子が出てきています。
小学校の実践報告では、親の強い要求で、Jリーグの下部組織に入っていたり、地域の野球チームに入っていたり、テニスクラブに入っていたりする子が、教室では暴力的な言動を繰り返している様子がリアルに報告されています。
彼らは、練習の場では、罵声をあびながら常に否定され続けている子たちでした。そして彼らは、スポーツ能力主義の中で生きていて、挫折寸前の不安の中にいることがわかってきました。つまり、一生懸命つぱったり、不適な態度をとりながら、自分を偽装することでしかその不安からのがれられないような精神状態になっているかもしれないということです。そして残念なことが、親はそのことに気がついていないということです。そればかりか、親の願いをさらに強引に子どもに押し付けてしまっている状況さえあるようです。
中学校の報告では、父親の母親に対する暴力を小さいときから見ていた子、その中で自分がここにいてはいけないのではないかという不安、そして学校でも冷たく「切られて」いく中で、タバコ、対教師暴力を繰り返しています。
それでは、私たちは、こういった子たちとどのようにかかわっていけばよいのでしょうか。
一つは、暴力を繰り返すことでしか自分を保てない子でも…、いや、そういった子であるからこそ、自分を受け止め、包んでほしいという願いや、自分と一緒にいてくれる存在を欲しているということです。
だとしたらまず、教師はこういった子たちの思いや願いに応答できる対話やケアが必要なのではないでしようか。そして、そういった子たちと他の子どもたちをどのように「つないでいくのか」の実践構想が必要なのではないでしょうか。
今の子どもたちの「暴力」があらゆる「関係性」の中で生まれているのだとしたら、「関係性」の中でしか癒せないし、解決できないのだと思いました。
wrote by しおちゃんマン
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