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2006年11月11日

教員養成研修への疑問

授業の技術向上のために、様々な名称や形で、教員養成が取り組まれています。授業の進め方はもちろん、板書の仕方、ノートのとらせかた、子どもたちへの目配り、エトセトラ…。

確かにそういった授業技術も必要でしょう。そういった研修を全否定するつもりはありません。ただし、それだけでいいのか。いや…、そっちにばかり力を入れていいのか?といった疑問を常に持っています。

なぜなら、そういった技術は、すべての子どもたち、すべての学級の授業に通用しないからです。

「こっちのクラスでは同じ授業の流れでもうまくいったのに、こっちのクラスではうまくいかない」
「去年、同じ学年のクラスでうまくいった授業が、今年はうまくいかない」
といったことが、たくさんあるのが教育現場だからです。

なぜでしょうか。簡単に言えば、子どもが違うからです。

授業や、学級づくりというのは、子どもたちの分析なしでは、なしえないのです。

これは「児童の実態」などという単純な問題ではありません。そういった実態を作り出している子どもたちの生活背景、さらにはその生活背景を生み出している社会情勢の分析がなければ、真の子ども理解ができないということです。

しおちゃんマンは、20年以上、そのこと(子ども論)に、とことんこだわってきたつもりです。

なぜこの子は、こういった発言・行動をするのだろう。なぜ何度言ってもわかってくれないのだろう。その分析にこだわってきたということです。

ただ、その答えが明確に出ることはなかなかありません。しかし、それを見つけようとする教師のスタンスに子どもたちや保護者のみなさんが信頼と理解をよせてくれているのだと思っています。

子ども論、社会情勢分析が欠けている授業技術優先主義は、さらなる教育荒廃(子どものせい、親のせいにして終わらせてしまう)を生み出してしまうのではないかと心配しています。

wrote by しおちゃんマン

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