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2006年09月21日

公・私・ネット

昨日は、市教研(浦教研)の学級経営部会に参加しました。定期的に開かれる、市の全職員の研究会です。

学級経営部会では、最初に一人ずつクラスの様子や子どもたちの様子を報告するのですが、そこでいくつか気づいたことがありました。

以前は、クラスの「公的」な取り組み、つまり、学級行事や子どもたちの同士の話し合いの様子などについての報告が多かったのですが、最近は、指導で苦労している一人の子どもや、クラス内のトラブルなどについての報告が多くなってきたということです。

いわゆる、子どもたちの「私」の問題の報告が多くなってきたということです。

子どもたちは、「公」で生活する世界と、「私」で生活する世界を上手にすみわけています。

高学年から中学生にかけては、それが自分たちの中でしっかりと分化され…、たとえば、私的な問題を公的に話し合われることを極端に嫌います。ということで、「私」の問題がなかなか公的な問題にならないということがあります。

しかし、学級経営という公的な指導を進めるためには、子どもたちの「私」の世界に注目しなければならないわけで、「私」の問題が大きければ大きいほど、学級経営がうまくいかないというのも、ここに原因があります。

また、学級崩壊というのは、公的な世界が、子どもたちの「私」の世界に支配され、かきまわされてしまった状況ととらえています。

「やりたくないからやらない」「気に入らないからやらない」「面倒くさい」「気に入らない」といった子どもたちの声は、「私」の世界ですね。

ところが教師はそれを公的にのみ解決しようとしてしまいます。ゆえに「どうして気に入らないの?」などと公的に尋ねても、まったく会話にならないわけです。

さらに最近では、ここに「ネットの世界」というのが、高学年以上に加わります。

子どもたちは、ネットの世界と「私」の世界もすみわけています。ネットでの話題は、「私」の中でもあまり話題にしないということに最近気がつきました。

さて、こうした三重構造の中で私たちはどう指導を進めていけばいいのでしょうか。

いつか詳しく提起してみたいとは思っているのですが、一つは、私的な関係に注目しつつ、公的な取り組みにつなげていくこと。

もう一つは、公的な取り組みをしていく中で、子どもたちの私的な世界を豊かにしていくこと。

この両面だと思っています。

ちなみにネットは、それらを進めるために利用するといったイメージです。

少し話がそれますが、「学力」は本来は公的に保障されなければならないのに、それが「私」の問題に比重がかかってしまったところに、学力の二極分化の問題、保護者からの理不尽な要求の問題につながっていると考えています。

ただ、安易に「公」とか「私」という言葉を使うことには注意を払いたいとは思っています。

何が「公」で、何が「私」なのかは、まだまだ研究しなければならないことだと思うからです。

しかし今の子どもたちや教室の様子を考えるにあたって、便宜的にこの二つの言葉を使うことも必要だと考えて使ってみました。

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wrote by しおちゃんマン

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